憲法の価値を散々語っても、この価値が侵害されたとき、守られなかったときに、これを担保する実効的なシステムがなければ、普遍的な価値も、絵に描いた餅である。
日本は、書面によらない贈与を規定している数少ない近代民法をもつ国であるが、これは「武士気質」からして、一度した口約束は守られる国民性が反映されている、などと説明されることもある。かなり乱暴な説明ではあるが、法秩序の底に「信頼」を措定していること自体は、我が国の国民性や法文化の特徴を端的に示しているといえる。
さて、現代立憲主義は、この憲法の定めるリベラルな価値の担保システムとして、司法権を行使する裁判所に「違憲立法審査権」を与えた。
あらゆる国家行為が憲法に適合しているかを最終的に判断する権能である。
国会の立法や、行政権の公権力の行使に対して、憲法適合性を問うことができる。
余談だが、憲法41条には、「国会は国権の最高機関」という規定がある。三権分立と言いながら、国会が「最高機関」なのか。憲法の価値秩序の中で最も尊い存在は、「個人」である(憲法13条)。三権の中で唯一主権者国民からの信任を直接受けている、主権者国民の代表者は国会である。したがって、国会の権力性の由来がもっとも主権者国民と直結しているからこそ、憲法は、「個人の尊重」のコロラリーとして、国会を「最高機関」とリップサービスを言ったのである。そう、権力関係に実際上の優劣はなく、あくまで理念的なリップサービスである(政治的美称説)。
では主権者国民から信任を受けている国会の制定した由緒正しい法律を、なぜたかだか司法試験を受かっただけの集団である裁判所が、「違憲」「無効」という判断ができるのだろうか。
国会及び政治部門での決定は、基本的に多数決で決する。多元的な利害のバーゲニング、熟議を経た結果、多数決をする(熟議を経ない民主主義を多数決主義という)。
多数決の結果、必ず少数者が生まれてしまう。すなわち、多数決に負けてしまえば、49対51でも1対99でも、負けは負け、そして、勝った多数派に対して、負けた少数派、ということになる。
ここが民主主義のジレンマであり、ある種の限界である。民主主義には、究極的には個人の権利・自由とは緊張関係があるのだ。
大前提にもう一度立ち戻りたい、憲法や立憲主義、リベラリズムがもっとも大切にしたい核心的価値は、「個人の尊厳」であり、つまり、「自分らしく生きる」という価値である。
我々個人は、どこかを切り取れば皆少数者である。趣味、嗜好、道徳観や宗教観、一人として同じ人はいないという意味で、誰しもが少数者なのである。
民主主義の決定からこぼれてしまった少数者を、個人の権利を、どのようにして保障するのか、ここで裁判所の出番となる。
裁判所は、たとえ民主主義的決定からこぼれてしまった人でも、憲法を根拠に救済する。その個人一人の権利で社会全体の利益を覆せる。これが立憲主義である。つまり、立憲主義と民主主義は、緊張関係にあることを忘れてはいけない(この意味で、決定の装置としての民主主義にも、共生の枠組みという仕組みとしての立憲主義にも、過度な期待や、信仰心を持ってはダメだ。民主主義にも、立憲主義にも自明な形など存在しない。我々がここでよいと考えるそれぞれのラインが我々の社会の民主主義や立憲主義の在り方を決める。我々個人一人一人の「不断の努力(憲法12条)」が必要なのである。)。
裁判所が民主主義的な選挙等を経て選ばれていないのは、民主主義的決定を民主主義的な多数決的なプロセスから独立して個人の権利・自由の救済を判断するために、あえて非民主主義的な機関にしたのである。
このように、立憲主義、リベラル・デモクラシーの番人ともいえる違憲立法審査権であるが、これが、我が国では十全に機能しているとはいいがたい。
今までは「信頼」をもとにギリギリ成り立ってきた日本のリベラルデモクラシーはその「信頼(お人好し)」が仇となってもはや逆噴射している。
これを解決するためには、違憲立法審査権の蘇生が必要である。
どうしたら宝刀から錆を落とせるのか
to be continued